校長ブログ

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  • 「やはり少しはあります 第六夜に思うこと」

    先に夏目漱石の「夢十夜」の「第六夜」について触れ、この作品を深読みはしていない旨、書きましたが、やはり少しはあるのです。

    決して、深読みの類ではないと自分では思っているのですが、自分なりに感じた事は確かにあります。

    先の記事を書き終えた後、少しウズウズし始めましたので、書きます。当然、大文豪相手に書評などをやろうと云う気持ちなど毛頭ありませんので、素直な「感想」ということで…。

    あの作品の結びなのですが、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とありますが、その前に主人公(漱石自身)はいくつもの木を片っ端から彫っています。そして、不幸にしてどの木にも仁王は見当たらなかった。

    私はこの件(くだり)に、明治という時代の気分を強く感じたのです。

    主人公がいくつもの木の中に仁王を探しますが、ついに「運悪く」掘り当てることはできませんでした。

    この「木」とは「これから如何様にも形作られる素材=未来」であり、そこに何も見えないというのは明治という時代が、どれほど急旋回を図ったかということを表しています(と思います)。

    仁王を「古き日本の姿」とすれば…。しかし、時代は、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」にあるように、「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている」時、まさに坂の上に漂う雲、「近代化」を求め、「それまでの日本」、つまり後ろなど振り返らずひたすらに坂を登って行こうとします。ですが、その坂の上に「近代日本」の姿を描く事は至難のことです。いつまでも雲は遥か遠くに浮かんでいます。

    明治とは、「木(素材)」という未来の中に、かつての姿を振り返ることなく、未知の世界を尋常ならざる思いで描こうとする時代です。

    漱石が作品の中で言う「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」というのは、そういった時代の空気を表しているのでしょう。

    「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ分かった」というのは、それまでの伝統を振り切って「近代化」「脱亜入欧」を図る日本の姿への「皮肉」なのでしょうか。それとも、まさに「不易流行」という、常に改革の中で作られる伝統ということへの「複雑な思い」なのでしょうか。

    悩まず、迷わず「前に進む」のは決してたやすいことではありません。

    私が、この話に強い印象を持ち続けているのは、その思いに共感したからなのでしょう。極々、自然にそう感じました。

  • 「私が護国寺に居を構えた ちょっとした理由」

    前の話で、関西から東京に出てきて、その居を「護国寺」に構えたことを書きましたが、なぜ「護国寺」であったのかには、ちょっとした理由があるのです。

    夏目漱石の「夢十夜」という作品をご存知でしょうか。漱石の幻想的な文学への試み、実験的な作品のようにも思えますが、モチーフが「夢」ですから、私は素直にそのまま読んだ記憶があります。

    「こんな夢を見た」で始まる、第一夜から第十夜までの十編の短い話が書かれた作品です。

    その「第六夜」に登場するのが「護国寺」なのです。話をごくごく大雑把に説明すれば、護国寺の山門で、なんとあの運慶が仁王を刻んでいる(文中では「彫っている」ではありません)というのです。作品は「運慶が護国寺の山門で仁王を…」という言葉で始まります。それが評判となって大勢の人が集まって来るのですが、その中に主人公(おそらく漱石自身でしょう)の姿もあります。その目の前で運慶が黙々と仁王像を刻んでいるのです。

    「何故、明治の世に運慶が?」と云うことは、まあ夢の事ですから。

    とにかく、この「第六夜」が非常に記憶に残っているのです。故に、麹町への赴任が決まった時、迷わずにその居を「護国寺」に求めました。

    では、どうしてこの話が記憶に残っているのか?

    感じ方は人ぞれぞれでしょうが、運慶は「仁王を刻んでいるのではなく、まるで土の中から石を掘り出すように、木の中から仁王像を掘り出している」と作中の人物が言います。

    主人公は「彫刻とはそういうものか」と思い、自分もやってみようとします。家に帰って適当な木材を彫り、そこに仁王像を求めますが、何もない。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」と悟り、それで運慶が今日まで生きているという理由が分かった、というのがこの話の結びです。

    この話の意味を考えるとキリもなし、です。しかし、私には妙にストンと腑に落ちる話でした。それ以来、「護国寺」というものが何故かキーワードのように頭に残っていたのです。

    で、ただいま「護国寺」から麹町学園に通っています。

    あまり深く考えないでください。それだけの事なのです。

  • 「一年に200日 どこにいたと思いますか? 山です」

    少し堅い話が続いたような気がしますので、今回は「箸休め」です。

    タイトルにあるように、私の趣味は登山です。ピッケルやハーケンを使った、少々危険の伴う「山登り」です。

    学生時代には一年に200日くらい、山にいました。

    学生時代から始めた登山ですけど、初めての海外遠征は、ヒンドゥークシュ山脈で、アフガニスタンからパキスタンの一部にまたがり、最高峰はティリチミール(7690m)で、7000m以上の峰が並び立っています。アフガニスタンの首都はカブールと日本では表記されていますが、発音としては「カーヴル」に近いです。

    そのカブールから数百キロ離れたバーミヤン州の州都バーミヤン(これもバーミヤーン)を訪れた時、いかんせん初めての海外遠征ですので、言葉も通じず、右往左往したというのが正直な所です。

    その時、現地で偶然出会ったある日本人の方に、大変お世話になりました。まさに地獄に仏、砂漠で水。その方とは今でもお付き合いが続いています。

    登山には多くの人の「助け」が必要となります。そしてなにより「チームワーク」が重要となります。

    話が逸れるような気もしますが、私は教育の場で40年間、生きてきました。ですがたまに私がビジネスでよく使われる言葉、例えばPDCA(Plan-Do-Check-Act)と言うと、驚かれるのですが、それは教育をビジネスとは違うもののように見られているためだと思います。同じです、考え方は。要は「計画を立てて実行し、それを検証し、更なる行動につなげる」ということです。

    ただ、もしそういった考えが自分の身についているとしたら、それは趣味である「登山」が理由であると思います。

    高く険しい山に登る時、チームを組んで「計画」を立て、それに則って行動しなければ、高いリスクをもつ登山には挑めません。

    登山は趣味ですが、確かに、多くを学ばせてもらった「自然の教室」であったのかもしれません。

    皆さんの趣味は如何ですか? 昂じれば、学校では学べないものにたくさん出会える筈です。

  • 「私も麹町学園の1年生」

    いくつになっても、何か新しいことが始まる時というのは期待と緊張が入り混じった思いを覚えるものです。

    麹町学園にご入学された皆さんも、新学年を迎えた皆さんも同様であると思います。もちろん私も。

    なぜなら、私も「麹町学園の1年生」だからです。今皆さんがお持ちの気持ちとそれほど違っているとは思いません。「がんばるぞ」という気持ちと、「さて、新しい環境でまず何から始めるか…」という若干の戸惑いというか、先がまだ霧がかったような思い。

    そのような時、今も昔も私はある俳句を思い浮かべます。

    「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」。

    極めて簡潔で、情景・心情がイメージしやすい一句です。

    しかし、この歌には作者である高浜虚子の、これから向かう往きし方に対する、決意が込められている俳句なのです。

    ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、高浜虚子は、あの、古典文芸である俳句を近代に蘇らせた正岡子規に師事し、子規は虚子を自分の後継と目していました。様々あって虚子は自分の道を進みます。

    そして、同じく子規門下の河東碧梧桐が起こした新傾向俳句(後の自由律俳句)、つまりそれまでの俳句の形式を破る動き(=改革)に対して、古典文芸としてあるべき俳句を、自身が「近代において如何に守る存在となるか」という志を胸に抱いた時に詠った俳句のようです。

    この時代(明治期から大正期)は、古いものと新しいものとが角逐する、近代日本文化の黎明期です。

    先の句の「春風」というのは季語ですから、「はるかぜ」と詠むべきでしょうが、私はあえて、心地良さの中にも身を圧してくるようなイメージで漢詩風に「しゅんぷう」と詠んでみたいと思います。「闘志」という言葉もありますから。

    虚子も碧梧桐も「伝統と改革」という狭間に生きた俳人ですが、これはどちらかを選択するという事では決してありません。まさに「不易流行」です。伝統という普遍性は変わり続けることの中にこそあるのです。

    永い歴史に培われた「伝統」の上に立ち、次の時代を見据え、あるべき姿を模索するということでは、二人とも同じなのです。

    一つの節目に身を置いた時、その軽重はさておき、まず必要なのは「前に」でしょう。

    私も皆さんも、個々に思う所は異なっても、ヨーイドンで前に!

  • 「伝統の上に成り立つ改革」

    何か新しいことに臨む時、往々にして鼻息が荒くなり、思わず要らぬ力が入るものです。そうはならぬよう、常々自戒はしています。

    しかしながら、「その時」にしか出ない力があることも確かです。

    まず、その力で以って考えねばならないことは、110年の伝統の上に立つ「豊かな人生を自らデザインできる自立した女性」を育てるという、今日の麹町学園の精神を、「如何に、より具体的な成果として発展させていくか」ということに尽きると思います。

    これがまさに「伝統」という強い地盤の上にこそ成り立つ「改革」であると考えます。

    「成果」というものは宙に漂うように現れるものではありません。「盤石の地」の上に「積み重ねて」こそ、得られるものです。

    麹町学園の今日の精神こそが「伝統」に支えられた盤石の地であり、そこに積み重ねるべきものは「見える力」、つまりは学ぶ力です。

    明治の高名な教育者である新島襄(にいじま じょう:同志社英学校、後の同志社大学の創設者)の、「知性・品性を磨いた女性は、時に男性を超えて世の中を動かす」という言葉があります。現在に比べて、まだまだ女性の社会的立場が決して強くは無かった時代の言葉です。

    麹町学園の目指す教育目標「聡明・端正」をその「知性・品性」に重ねてみれば、(男性を相手にする必要はありませんが)、「見える力」を積み上げることにより、女性としての「社会力」とでも云えば良いのか、「豊かな人生の力」をその身に備える事ができると考えます。

    ただ、ここで誤解して欲しくないのですけど、「見える力」というものが、ただ単に数値で測れる学力のみではない、ということです。

    バランスが必要なのです。「覚えるだけで身につけた学力」は、往々にしてすぐに萎えてしまいます。そこに「考える力」が備わらなければ「豊かな力」とは程遠いものとなってしまいます。

    学校も「あるべき姿」を求めます。皆さんも「あるべき姿」を求めてください。そうそう簡単に答えが出ないから「考える」のです。

    「伝統」の上に立ち、焦ることなく、着実にその力を積み上げていきましょう。

    それを表現するなら、「コツコツと」、です。

  • 「伝統が作り上げる学校の風味 それは『らしさ』」

    この、一年で最も素晴らしい「自然が芽吹く」季節に、新しく麹町学園の校長を拝命致しました。

    永く関西に住んでおりましたので、この東京の雰囲気に早く馴染もうと、その居を東京の真ん中、護国寺に構えました。本音を言えば、まさにまだ右も左も分からないと云った状態です。正直、地方から東京の大学に入学してきた学生たちと、あまり変わりません。

    ですが、新校長として学校の事はそういう訳にはいきません。特に気負うとか急ぐとかいった気持ちは無いのですが、まずは学校の事を可及的速やかに、肌で感じ、頭で理解しなければなりません。

    麹町学園での私の第一印象は「生徒たちの顔が穏やか」なことです。

    中学校、高等学校それぞれの生徒会長と話をしました。率直に麹町学園の良いと思う所を尋ねたところ、それぞれが「先生と生徒との距離が近い」という、同じことを答えました。

    全教師との面談でも同じような事を耳にします。「麹町学園は、面倒見のいい学校との定評があります」と。

    これがまさに永い年月に培われた「伝統」というものなのでしょう。単なるフレンドリーというよりも、それは「学校と生徒とが共有する信頼関係」と云った方が適切でしょう。一朝一夕に作り上げられるものではありません。

    建学の精神に基づいた教育は、110年の間に、「風味」を創り上げます。それは「らしさ」です。「麹町学園らしさ」としてもたらされたものは「絆」の一言で表現できます。これはこの先、何年経とうが失われることは無いでしょう。それが「伝統」の力です。

    しかしながら、「では、次なる伝統の嚆矢(物事の初め)は?」と自問します。これは持論ですが、永続する「伝統」は「伝承」、つまり、「そういうものだ」という予定調和的な雰囲気を持ってしまうこともあります。

    そこにこそ「伝統の上に成り立つ改革」という、私の最初の仕事があります。一言で云うなら、あの松尾芭蕉が提唱した「不易流行(ふえきりゅうこう:普遍的な本質は、常に変化する中にある)」。

    私自身が「伝統」に頼るようなことがあっては、新たな時代・社会の要求する「あるべき姿」は見えてこないでしょう。

    さあ、私の最初の大仕事が始まります。

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