校長ブログ

BLOG

  • 「私が護国寺に居を構えた ちょっとした理由」

    前の話で、関西から東京に出てきて、その居を「護国寺」に構えたことを書きましたが、なぜ「護国寺」であったのかには、ちょっとした理由があるのです。

    夏目漱石の「夢十夜」という作品をご存知でしょうか。漱石の幻想的な文学への試み、実験的な作品のようにも思えますが、モチーフが「夢」ですから、私は素直にそのまま読んだ記憶があります。

    「こんな夢を見た」で始まる、第一夜から第十夜までの十編の短い話が書かれた作品です。

    その「第六夜」に登場するのが「護国寺」なのです。話をごくごく大雑把に説明すれば、護国寺の山門で、なんとあの運慶が仁王を刻んでいる(文中では「彫っている」ではありません)というのです。作品は「運慶が護国寺の山門で仁王を…」という言葉で始まります。それが評判となって大勢の人が集まって来るのですが、その中に主人公(おそらく漱石自身でしょう)の姿もあります。その目の前で運慶が黙々と仁王像を刻んでいるのです。

    「何故、明治の世に運慶が?」と云うことは、まあ夢の事ですから。

    とにかく、この「第六夜」が非常に記憶に残っているのです。故に、麹町への赴任が決まった時、迷わずにその居を「護国寺」に求めました。

    では、どうしてこの話が記憶に残っているのか?

    感じ方は人ぞれぞれでしょうが、運慶は「仁王を刻んでいるのではなく、まるで土の中から石を掘り出すように、木の中から仁王像を掘り出している」と作中の人物が言います。

    主人公は「彫刻とはそういうものか」と思い、自分もやってみようとします。家に帰って適当な木材を彫り、そこに仁王像を求めますが、何もない。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」と悟り、それで運慶が今日まで生きているという理由が分かった、というのがこの話の結びです。

    この話の意味を考えるとキリもなし、です。しかし、私には妙にストンと腑に落ちる話でした。それ以来、「護国寺」というものが何故かキーワードのように頭に残っていたのです。

    で、ただいま「護国寺」から麹町学園に通っています。

    あまり深く考えないでください。それだけの事なのです。

  • 「私も麹町学園の1年生」

    いくつになっても、何か新しいことが始まる時というのは期待と緊張が入り混じった思いを覚えるものです。

    麹町学園にご入学された皆さんも、新学年を迎えた皆さんも同様であると思います。もちろん私も。

    なぜなら、私も「麹町学園の1年生」だからです。今皆さんがお持ちの気持ちとそれほど違っているとは思いません。「がんばるぞ」という気持ちと、「さて、新しい環境でまず何から始めるか…」という若干の戸惑いというか、先がまだ霧がかったような思い。

    そのような時、今も昔も私はある俳句を思い浮かべます。

    「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」。

    極めて簡潔で、情景・心情がイメージしやすい一句です。

    しかし、この歌には作者である高浜虚子の、これから向かう往きし方に対する、決意が込められている俳句なのです。

    ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、高浜虚子は、あの、古典文芸である俳句を近代に蘇らせた正岡子規に師事し、子規は虚子を自分の後継と目していました。様々あって虚子は自分の道を進みます。

    そして、同じく子規門下の河東碧梧桐が起こした新傾向俳句(後の自由律俳句)、つまりそれまでの俳句の形式を破る動き(=改革)に対して、古典文芸としてあるべき俳句を、自身が「近代において如何に守る存在となるか」という志を胸に抱いた時に詠った俳句のようです。

    この時代(明治期から大正期)は、古いものと新しいものとが角逐する、近代日本文化の黎明期です。

    先の句の「春風」というのは季語ですから、「はるかぜ」と詠むべきでしょうが、私はあえて、心地良さの中にも身を圧してくるようなイメージで漢詩風に「しゅんぷう」と詠んでみたいと思います。「闘志」という言葉もありますから。

    虚子も碧梧桐も「伝統と改革」という狭間に生きた俳人ですが、これはどちらかを選択するという事では決してありません。まさに「不易流行」です。伝統という普遍性は変わり続けることの中にこそあるのです。

    永い歴史に培われた「伝統」の上に立ち、次の時代を見据え、あるべき姿を模索するということでは、二人とも同じなのです。

    一つの節目に身を置いた時、その軽重はさておき、まず必要なのは「前に」でしょう。

    私も皆さんも、個々に思う所は異なっても、ヨーイドンで前に!

1 2