学校の歴史
Chapter2

学園紹介Guide

1905~1912(明治38~45年)

麴町女学校の誕生

第1回卒業生と教師陣
(2列目左から2人目が大築校主、3人目が小川学監、中央が岩淵校長)

東京都公文書館に、本校設立にあたって大築佛郎が提出した各種の書類が残されている。それによると、大築は1905年(明治38年)6月21日、東京府知事に対し「今般別紙之通り麴町女学校ナル各種学校設立仕度候」と願書を提出している。その後、7月8日に認可が下り、これを受けて私立麴町女学校が7月15日に開校したという届けが31日に大築から東京府知事に提出されている。本校の創立記念日は9月12日であるが、この日は開校式が開かれた日である。

大築佛郎はまだ26歳という若さのため、校長には大築の母方の従兄で当時東京府立第一中学校(現都立日比谷高校)の教職にあった岩淵醫(くすし)を迎え、大築は校主となった。教頭には大築の小学校以来の親友であり、のちに私立成蹊学園を創立する中村春二が、また学監には三輪田真佐子・棚橋絢子と共に教育界の三女傑といわれた小川直子があたった。

開校時の様子について、第2回卒業生の長谷川きぬは次のように回想している。
「母校で生徒募集が始まったのは明治38年4月であった。入学してみると、まだ学校が創立する事も世間に知れず、従って入学する人も少なく、本科が9人、裁縫科が5人で、校舎はボロボロで塾のような感じがした。授業が始まってからでも、入学する人、やめる人等で、暫く落ち着きのない気持が続いた。私立麴町女学校の門標が掲げられたのは授業が始まってから余程後の事で、先生も初めは事務の人を加えて5人位であった。」

4月以降に暫定的に授業が始まり、東京府に申請して認可を得た後に門標を掲げ、9月12日に開校式が行われたのであった。

開校式

1905年9月12日、私立麴町女学校の開校式が挙行された。岩淵校長の式辞の後、校主である大築佛郎が創立の動機と抱負を述べたが、長谷川きぬによれば「その態度極めて謙虚で、一同先生への信頼を厚くし、生徒もようやく落ち着くことができた」という。

開校式における大築の話は以下のようであった。
「私は大学を卒業する時に親から遺産を受けました。その遺産を何に使用しようかと色々考えましたが、何か世の中のためになる事に使用したいと思い、父の遺志でもありますのでその志を継いで女子の学校を建て、本日ここに皆さんを迎えることになったのであります。」

校歌の制定

1905年10月に校歌が制定された。作詞は本校教頭で文学者の中村春二、作曲は大築・中村両氏の恩師である鈴木米次郎が担当した。鈴木は本校創立の2年後に東洋音楽学校(現東京音楽大学)を設立している。

当時の校歌は時代を反映して、「まことの教えをいしずえに」の部分が「「大御教えをかしこみて」となっていた。

校舎の建設

開校当時の校舎

校地は現在地である麹町区元園町2丁目4番地に得た。歩いて数分の元園町1丁目(英国大使館裏)には津田梅子が1900年に女子英学塾を開いている。

創立時の校舎は、1902年まで実践女子学園の前身である実践女学校が使用していたものであった。またその校舎は、1888年に暁星学園の前身である暁星学校が開校しており、同校が移転した後1890年からは海城学園の前身である海軍兵医学校予備校が使用し、1899年に実践女学校が開校したという由緒あるものであった。

その校舎がいつ建ったものかは不明だが、すでに暁星学校が使用していた当時に「あばら家」と呼ばれていたということから、本校が開校した頃には相当年季が入っていたものと想像される。こうしたことから、早速校舎の建築に取りかかることになり、大築校主の従兄である大蔵省技官木村稠吉工学博士が設計を担当した。

開校翌年の夏、表通り(東側)沿いに5教室と事務室・応接室等を備えた2階建ての木造校舎が完成した。

その後、北側2階に裁縫室、1階に2教室を増築、さらに1909年には南側の校舎を建て替え、2階に音楽室兼作法室と教室、1階に雨天体操場と教員室を備えた校舎が完成した。

若菜会の誕生

1906年、校友会(現在の生徒会にあたる)としての若菜会が誕生した。委員会制度で庶務部・学芸部・運動部に分かれて活動した。当時は生徒の間で島崎藤村の「若菜集」が好んで吟じられていたという。元園町から名をとった若菜会の機関誌『そのの若菜』も、中村春二教頭の尽力で創刊された。

1907年には第1回の卒業式を挙行。卒業生は技芸科の4名であった。翌年の第2回卒業式には初めての本科卒業生7名が出ている。

麴町高等女学校に

1908年4月1日、文部大臣の認可により、麴町高等女学校となった。明治末年には生徒数が300名を超えた。

当時の教科は、修身・国語・外国語・歴史・地理・数学・理科・図画・家事・裁縫・音楽・体操・教育であった。修身は学監で皇室の教育係りも務めていた小川直子が「日本婦人の特徴」と題して講義した。国語は中村教頭、地理は大築校主、理科は岩淵校長が担当した。

学内は極めて家庭的で、授業の時以外は兄弟姉妹のような親しさであった。昼休みには先生も入ってピンポン、フットボール、クリケット、体育ダンスなどを楽しんだ。校服は決められていなかったが、和服の2尺の袂は女学生らしくないということで、最高1尺8寸に限定された。黒の編み上げ靴を履き、インク壺を提げて登校した。校外学習は日帰りで、大宮公園、川崎大師、高尾山、稲毛海岸、逗子・葉山などであった。