学校の歴史
Chapter10

学園紹介Guide

1966~1970(昭和41~45年)

学園長と校長の長寿祝賀式

1966年(昭和41年)10月30日、東京体育館で行われた運動会に合わせて、翌年米寿を迎える大築学園長と喜寿を迎えた山下校長の長寿祝賀式が行われた。

小山田三郎が第5代校長に就任

体育祭での麴町音頭(1967年)

1967年4月、山下重二校長が勇退し、小山田三郎が校長に就任。山下校長は主事・副校長・校長として本学園に27年間勤務し、前年に喜寿を迎えていたが、高齢を理由に4月2日をもって校長を辞任した。小山田新校長は都立雪ケ谷高校等の校長を歴任し、第5代校長として本校校長に就任した。

森数樹理事長が逝去、大築邦雄理事が理事長に就任

1967年12月17日、病気療養中の森数樹理事長が肝膿瘍のため逝去。享年75歳。12月22日には、学園講堂において学園葬が行われた。森理事長は1949年より本学園理事、1964年からは理事長として学園施設の充実に尽力した。

1968年3月、学園長の長男である大築邦雄理事が理事長に就任した。また、小山田校長が病気静養のため、平野毅が副校長に就任した。平野毅副校長は、都立南多摩高校等の校長を歴任されている。

生徒用玄関の新設と屋内プールの温水化

九州修学旅行(1967年)

1968年9月、生徒専用の玄関・ロビーが新設され、生徒の出入りがスムーズになり、朝の混雑が解消された。またこの年、屋内プールの温水化が実現。年間を通してプールが利用できるようになった。

卒業生の見た百年 5

高校生活での、一番の思い出と言えば、やはり高3の時に行った、九州への修学旅行でしょうか。私自身が九州へ行くのも、寝台列車に乗るのも初めての経験でしたので、特に印象に残っています。夜行寝台で、東京から九州まで、長い時間列車に乗っていたと思いますが、仲の良い友達同士一緒で退屈した記憶がありません。多分いろいろな話を、たくさんしたことと思いますが、その内容はあまり覚えていません。でもその時のお友達は、今でも久し振りに会って話し始めると、すぐに打ち解けることの出来る人達になっています。
その後九州へは、何回か旅行に行っていますが、寝台列車には一度も乗る機会がないまま、改めて当時の九州での風景や車輪の音が、鮮明によみがえりそれと同時に、3年間の学園生活も、楽しかったことばかりが思い出される、年令になりました。

Uさん(1964年卒)

大築佛郎学園長が逝去

1969年8月25日、学園の創立者である大築佛郎学園長が逝去された。享年90歳、天寿を全うされ安らかな眠りにつかれた。26歳という若さで学園を創立し、校主・校長・理事長・学園長として64年間の長きにわたり文字どおり一生を学園と共に歩んだ学園長であった。

夏期休業中のため、8月27日、自宅において密葬。
9月11日、学園講堂で小山田校長を葬儀委員長に学園葬が執り行われ、学園関係者のみならず多くの人々が、深い悲しみをもって送った。9月28日、青山墓地の大築家累代の墓に埋葬。

平野毅が第6代校長に就任

1970年4月、小山田三郎校長が勇退し、平野毅副校長が第6代校長に就任。小山田校長は3年間校長を務めたが、健康上の理由で4月1日をもって校長を辞任。平野新校長は、この2年間副校長として小山田校長を補佐し、実際上の校務を執ってきた。

この頃の生徒状況

当時の生徒総会

当時の「麴町学園新聞」によれば、1967年3月卒業生のうち、大学に79名、短大に88名が進学し、3名が留学している。生徒会には、文化部として英語・文芸・演劇・音楽・美術・書道・社会・家庭・手芸・写真・タイプ・ギターが、体育部として庭球・卓球・バレー・バスケット・器械・山岳・ダンス・水泳が、科学部として理化・生物が、総務として新聞・図書・放送部があった。

なお、1970年の学園の学級数と生徒数は、30学級、生徒合計1,326名であった。

コラム2: 「こきりこ」と「プロムナード」

体育祭の花形となっている高3ダンス「こきりこ」だが、アルバム写真で確認できるのは1972年(昭和47年)からである。「こきりこ」は富山県に古く伝わる民謡で、これをダンスに取り入れたのは体育科の教員であった湊、保坂、江上の3先生である。お茶の水女子大の夏期講習会で民謡「こきりこ」を基にした「竹打つ音」というダンスの振り付けを学び、これを生徒が踊りやすいようにアレンジしたとのこと。当初は制服のスカートをはいて踊ったが、体育祭らしくということで1978年からブルマーになった。また、元来は2本の竹を立てて床に落とし「ポン」という竹の音を響かせていたが、東京体育館が改修されてから床に竹を落とすことが禁止され、現在のスタイルに変えられた。
「こきりこ」以前に体育祭のラストを飾っていた種目に、「プロムナード」があった。高3が冬服・革靴に白手袋で行進し、最後に「麴町」のイニシャル「K」の字を決めるもので、当初は日大の吹奏楽部の生演奏で行進したという。屋外時代の昭和30年頃から行われていたようだが、体育館になってからは「K」の字と共にくす玉が割れるなどの演出も加わった。これも「こきりこ」が体操着になるのとともに、夏服・運動靴・すでに変わっている。この「プロムナード」は、東京体育館の改修と共に姿を消し、以降は「こきりこ」が高3のメイン種目となっている。