学校の歴史
Chapter1

学園紹介Guide

~1904(明治37年)

相川理事長

麴町学園は今年、創立109周年を迎えました。

私の祖父大築佛郎は女子教育の大切さを感じて”豊かな人生を自らデザインできる女性を育む”という思いで本校を創立しましたが、建学の精神は今日まで脈々と引き継がれてきました。
ここに、100周年を機にまとめた麴町学園の歴史物語をシリーズでご紹介します。

創立者の父・大築尚志(たかゆき)

創立者の父と大築佛郎・初枝夫妻

学園の歴史を知るには創立者の人となりを知ることが必要であり、創立者を知るにはその父を知ることが不可欠である。

大築尚志は佐倉藩士大築尚忠の長男として1835年(天保6年)に誕生した。大築家は佐倉藩主堀田家家臣として6代続いた家である。佐倉藩は幕末の通商条約締結交渉で著名な老中堀田正睦を送り出した蘭学の盛んな開明的な藩であった。尚志も、1851年(嘉永4年)に堀田正睦から高島流砲術修行を命じられ、ペリー来航の際には沿岸警備として千葉沖へ出張している。その後、尚志は藩命で江戸の手塚律蔵から西洋学を学んだ。同時期、手塚塾に入門していた者に西周、桂小五郎、津田仙などがいる。

1860年(万延元年)、尚志は佐倉へ帰って西洋学指南に抜擢され、1862年(文久2年)には幕府の蕃書調所に教授手伝として派遣された。蕃書調所は幕府による洋学研究の最高機関であり、諸藩から優秀な人材が集められていた。その後、尚志は大鳥圭介らと幕府の陸軍士官に取り立てられたが、明治維新による徳川家の静岡移封に伴い、沼津兵学校の設立に関わって教授となった。この時、尚志は兵学校の頭取として西周を推挙している。

廃藩置県後、沼津兵学校は静岡藩から兵部省に移管され、尚志は陸軍中佐に任官。1872年(明治5年)、帰京を命じられて陸軍省に入り、砲兵局長、砲兵監などを歴任し、最後は陸軍中将として退官する。尚志没後10年の1910年、東京水道橋の砲兵工廠本部玄関前(現後楽園庭園内)に銅像が建てられた(銅像は太平洋戦争中、資源供出の国家的要請により撤去された)。

尚志は大変な努力家で、蘭学修行時代には、蘭学の辞書を筆写し座右に置いて利用したという。この辞書は、義妹の弟、大槻文彦(『大言海』の編者)を通じて東京帝国大学に寄贈され、東大図書館に保存されている。また、女子英学塾(現津田塾大学)の創立者である津田梅子の父・津田仙とは、共に佐倉藩出身で手塚律蔵門下の親友であった関係から、晩年には二人で酒を酌みながら女子教育の重要性を論じあったという。佛郎の麴町女学校創立は父の意志を継ぐものであった。

尚志には五男九女がいたが、六女寿天(すて)の夫・田中義一は後に陸軍大将・内閣総理大臣として政界に指導的地位を占めた。また、七女春和(すわ)の夫・柳荘太郎は三井銀行重役・第一火災海上保険会社社長等を歴任し、実業界に重きをなした。両氏共に本学園の発展のため、助力・助言をされている。

創立者・大築佛郎

創立者・大築佛郎

大築佛郎は父・大築尚志、母・茂登の四男として1879年(明治12年)2月23日、東京小石川新諏訪町で生まれた。

兄・英吉との双子だったが、その年にイギリスとフランスの軍艦が来航したことにちなんで英吉、佛郎と名づけられたという(その上の兄・千里の名は生年に南米チリから軍艦が来航したことに由来するという)。

佛郎は東京高等師範学校(現筑波大学)付属小学校、同中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部地質学科に進んだ。大学の卒業論文は「天草島の地質学研究」である。大学卒業後、一時期東洋大学で教鞭をとったり、日本中を地質学の研究のため踏査して「鉱物学」の教科書を出版したりした。この本は中等教員の資格検定の受験にはどうしても読まなければならぬ本として評判であったという。

学究の道を歩む一方、かねてより女子の地位の向上と女子教育の重要性を痛感していたところから、また、「父の遺志」を生かすことにもつながることとして、1905年、全財産をなげうって麴町女学校を創設した。

その後、佛郎は校主兼教諭としてその経営に専念し、草創期の辛酸をなめた。麴町女学校は麴町高等女学校となり、今日の麴町学園女子中学校高等学校へと発展した。その間1937年(昭和12年)に高等女学校長、1947年中学校長、1948年高等学校長に就任し、他方学校経営者としては、財団法人・学校法人の理事長として名実共に重責を果たした。1951年には内閣より教育功労者として藍綬褒章を授与される。1964年、理事長・校長を退き、学園長として校務を統括するようになった。1969年8月25日、満90歳をもって逝去。全学園の哀惜のうちに学園葬が行われ、青山墓地に埋葬された。学園創立当時の苦心、1923年(大正12年)の関東大震災と1945年(昭和20年)の戦災による校舎全焼とその復興のための苦慮をはじめとして、学園発展のため、延いては我が国女子教育の向上に、全身全霊を打ち込み、一日として休むことのない生涯を送った。

創立者夫人・大築初枝

お堀端での大築校長夫妻と生徒たち

大築佛郎夫人・初枝は、1887年(明治20年)5月13日、森岩太郎の長女として岡山に生まれた。父・岩太郎は後に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)数学科教授を務める。父の転勤に伴い、新潟県立高等女学校に学び、その後、東京女子専門学校(現東京家政大学)を卒業。麴町女学校創立の翌1906年、大築佛郎に嫁す。1932年(昭和7年)、本学園教諭、1933年理事兼総務となり、学園発展のため貢献した。一方では、1942年、久布白落実女史(日本基督教婦人矯風会会頭、徳富蘇峰の姪)らと共に財団法人「母と学生の会」を設立、理事となる。
また、1943年には東京府より、朝鮮・満州・華北の教育事情視察に派遣される。さらに1948年以降東京家庭裁判所調停委員幹事を委嘱されるなど社会活動にも積極的に取り組んだ。1956年11月29日急逝。いうまでもなく、学園長と共に学園発展に寄与したその功績の大なること計り知れず、学園として忘れられぬ恩人である。