学校の歴史
Chapter13

学園紹介Guide

1981~1985(昭和56~60年)

高校新教育課程実施

大学合格状況の展示

1982年(昭和57年)、高校の新教育課程が学年進行で開始され、教科名および内容が大幅に変更された。

新教育課程では、「ゆとりある教育」をかかげ、「基礎・基本の充実」と「科目選択に柔軟性」を持たせた点が特徴である。「国語Ⅰ」「理科Ⅰ」等の総合的な基礎科目や「基礎解析」「代数・幾何」等の個別科目が新設された。本校では高3の選択科目が2種類から3種類に拡大された。

高3通年講習実施

1982年度より志望校合格に向け、高3希望者を対象に年間単位の放課後講習が実施されることになった。

また、この年度の高3より、合格状況を廊下に掲示することが始まった。

水泳部、リレーでインターハイに出場

1982年8月、水泳部が400メートルメドレーリレーで名古屋市で行われたインターハイ(高校総体)に出場した。

水泳部は本校運動部の中でも実績と伝統のある部で、個人種目では全国優勝した選手も何人かを数えるが、総合力の問われるリレー種目で全国大会に出場することは難しかった。

半蔵門駅開業

1982年12月9日、地下鉄半蔵門線の延伸に伴って半蔵門駅が開業した。これにより半蔵門線、田園都市線沿線の世田谷区や神奈川県方面からの通学がより便利となり、本校生徒の通学区域が拡大された。

被服室の移転と電動ミシンの設置

1983年3月、3年前に図書室と入れ替わりで4階に移っていた被服室を3階に移転。この工事に合わせて、25台のミシンを多機能型の電動ミシンに入れ替えた。

通学用バッグとリボンの変更

1984年度入学生から、今までの通学用かばん(中学生は本校規定の革かばん、高校生は紺または黒の学生用かばん)を、軽量で安価なものに切り替えた。

新しい通学用バッグは合成皮革で手提・肩かけ両用の校章を入れたものとなり、補助バッグも校章入りの防水性のある強靭なものとなった。

リボンは、従来は生徒自身が規定の形に蝶結びにして着用するものであったが、規定の形に結べない者もあることなどから、固定した形をホックで留められるものにした。

講堂の改装

1984年夏、翌年の80周年記念事業の一環として、講堂が改装された。

電気設備は一新され、ステージ幕や暗幕・照明器具などがすべて電動操作に、照明はコンピュータ制御となった。音響関係はアーティックのスピーカー2台を主とし、補助を5個つけた本格的なもので、映画鑑賞会、音楽会などでは大ホールに劣らない性能を発揮することになった。

教室・廊下などの改装

80周年体育祭のプロムナード

1985年の夏、80周年を記念して、校舎内壁面の全面改装および床の張り替えが行われた。床は従来のPタイルからロンリウムに張り替えられ、各教室のカーテンも不燃性のものに改められた。

80周年記念学園祭

80周年学園祭での合唱

1985年10月17日、新宿文化センターで80周年記念学園祭が行われた。

演劇部、ダンス部などの発表があったが、なかでも圧巻はN響と共演した「オラトリオ(天地創造)より」であった。卒業生3名と高1・高2・高3の生徒約400名の出演で、豪華かつ華麗なものだった。

80周年記念式典および祝賀会

80周年記念式典

1985年10月24日、講堂で創立80周年記念式典を挙行した。午前は在校生を対象に、午後は来賓、保護者、同窓会、後援会などの方々を招いて実施され、午前の式典では生徒全員による「大地讃頌」の合唱、午後の式典では高1・高2・高3の生徒による「天地創造」の合唱が行われた。

80周年記念式典

続いて、同日午後5時から赤坂プリンスホテル新館2階のクリスタルパレスにおいて約700名の参加のもとに祝賀会が開かれた。奏楽その他華やいだ気分に始まり、学園へ功労された方々の紹介など大変盛況な会であった。

80周年の記念品として、保護者および学園関係者に校章の葵を藍で染め付けた九谷焼の絵皿が配られた。

なお、1985年の学園の学級数と生徒数は、36学級、生徒合計1,654名であった。

コラム4: 大木千代先生について

1981年(昭和56年)3月、50年の長きにわたって本校に勤務した家庭科の大木千代先生が退職された。
大木先生は、1931年、麴町高等女学校に勤務。当時は和服の制服で、風見鶏があるモダンな木造校舎が完成したばかりであった。勤労動員、戦災、復興と激動の時代を大築校長と共に学園のために尽力し、1971年には東京都から私学教育功労者として表彰された。家庭科教育と共にクラス担任・学年主任・生活指導主任等を長く努め、厳しくも優しい指導から、多くの生徒から「学園の母」として敬慕されてきた。
大木先生は、東京大空襲で浅草田原町の住居を焼かれて郷里の茨城へ帰っていたが、大築校長が安否を気遣って焼け跡を尋ねられ、初枝夫人が茨城まで便りを下さったことに感激して、郷里の茨城から通勤する決心をされたという。以来、茨城県の竜ヶ崎市から片道2時間をかけて通勤され、朝は誰よりも早く出勤し、夜は誰よりも遅く退勤していた。その生活のすべてを学園に捧げたといっても過言ではないであろう。
退職後も学園評議員や同窓会監事を務められたが、1993年(平成5年)7月23日、83歳で逝去された。

卒業生の見た百年 6

私は、埼玉から麴町学園に入学し、まわりには一人の知り合いもなく、不安と期待いっぱいの新入生だったと覚えています。入学した1年の運動会、体育館での運動会は初体験。少しだけ足に自信のある私は、リレーの選手になり、仲間とバトンの練習をしたり、気持ちの高ぶりを感じながら当日を迎えました。決勝に進み、選手全員気持ちをひとつにスタート!前のランナーを抜こうとした瞬間、私の手からバトンが空中を飛んで・・・・・、結果は最下位。
顔もあげられない私の肩を皆がたたき、「泣かないで、頑張ったじゃない」。そう言いながら皆で泣きました。学生時代の友達は一生の財産と母から言われた言葉を、今、娘に話している自分自身が幸せです。

Sさん(1981年卒)